歴史

 念のため。このページにある記述は歴史を基にした架空の出来事です。なにかと勘違いしないように。

 

 年表はこちら。

 

 まだ表に出せないメモ

 

瑞霞諸島の発見と編入

 1869 年(明治2年)、太平洋上に漁へ出ていた漁師らから、見たことのない島が見えたという報告を聞いた日本国政府は、調査団を乗せた船を出航させました。

 出航してから数日の公開の後に、調査団は報告通りの場所に島々を発見しました。まずは瑞島(発見当時は各島に命名されていませんでした)に上陸し、続いて果最島、霞島の調査が行われました。

 一度日本に帰港した調査団は政府に報告。日本国は島々を領有するために、入植したい人たちを速やかに募り、第一次開拓使団が結成されました。開拓使団は瑞霞諸島に向け出港し、入植しました。

 1870 年、日本国は各島々に「瑞島」、「霞島」、「果最島」と命名し、勅令をもって東京府小笠原島庁管轄下に入りました。また、世界に向けて瑞霞諸島の領有を宣言しました。

瑞霞工部大学校の建設

 瑞霞諸島の領有宣言を聞いたアメリカ政府は、瑞霞諸島を太平洋上における補給・整備基地として活用できないかと日本国政府に打診しました。

 当時、日本国は明治維新・文明開化により欧米諸国の先進的な技術を欲しがりました。日本国は、アメリカの技師を瑞霞諸島へ派遣することを条件に補給・整備基地と技師を育成する瑞霞工部大学校の建設を決定しました。

 1872 年、瑞霞工部大学校が開校しました。日本各地から集められた技師の卵たちは、アメリカ人教師から必死に技術を学びました。

果最島造船所の開所

アメリカ式ドッグ

 

船による物資輸送

 日本国と瑞霞諸島は 1 500 km 以上離れています。そのため、船による人員・物資の輸送は大変なものでした。

 1870 年から、日本本土と瑞霞諸島の間は中小の船会社による不定期の航路が開かれました。

 1885 年には、日本郵船会社が発足し、年4回の本土と瑞霞諸島を結ぶ不定期航路が開設されました。

 1889 年には、日本国政府から特別輸出港のひとつに指定されました。

 1900 年からは、月 2 回の定期航路が開設されました。

瑞霞港の開港

 アメリカとの交易をより深くするため、日本国は 1889 年に瑞霞諸島を特別輸出港に指定しました。

 取扱量が増加つつある白瑞港は狭いため、霞島に新しい大きな港を建設することに決定しました。

 1891 年、霞島の西側に瑞霞港を開港。今後はこの港で交易を行うこととなりました。

鉄道の開通に向けて

日朱要港部の設置

 1919 年(大正 8 年)、日朱要港部を日朱地区に設置することが決定された。1922 年(大正 11 年)、日朱要港部が設置され、使用が開始された。

 これに伴い、瑞島から霞島を結ぶ橋梁が架設された。水深が深いため難工事となった。[要検証]←瑞霞諸島造成時に地球に頑張ってもらうため、特に問題無いこととします。(20200610)

禁酒法と瑞霞諸島

 1920 年(大正 9 年)1 月 16 日、アメリカではお酒を禁じる禁酒法が施行されました。お酒を求めたアメリカの人たちは国境を越えてまで手に入れようとしました。そのさなか、アメリカから離れており、かつ交流のある瑞霞諸島に目を付けました。

 アメリカと瑞霞諸島から、お酒を搭載した船が出航します。海上のとある場所で2隻が合流します。アメリカの人たちはその場でお酒が全て空になるまで飲み、満足してアメリカへ帰ります。

 このツアーはアメリカで大流行しました。お酒を求める人たちに対応するため、当時、土地の空いていた見霄地区に酒造会社がたくさん建ちました。

日朱警備府への昇格

 1941年(昭和16年)11月20日、日朱要港部は馬公・大湊・旅順・鎮海の各要港部と共に日朱警備府へ昇格された。

米国下の瑞霞諸島

 1950年からの朝鮮戦争に伴い、軍事基地を置かれた日朱町は基地とともに発展、瑞霞諸島において最も活発な地域となった。

 1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約が調印、1952年4月28日に同条約が発効した。これに伴いアメリカが瑞霞諸島の司法・立法・行政の全ての権限を行使することが規定された。

 この条約の発効により、東京都瑞霞支庁及び瑞島村・霞島村・果最島村の各村役場が廃止された。

 日朱基地がアメリカ海軍の管理下となり、物資の輸送は1箇月に2回、軍用船にて輸送された。

以下、設定変更前の設定


日朱基地建設の決定

 1908年、帝国海軍軍人佐藤鉄太郎により帝国国防史論がまとめられる。1907年に帝国国防方針と合わせ、瑞霞諸島の果最島に造船所を設置することが決定された。

 造船所の設置に伴い、果最島造船所への資材輸送に際して造船所周辺の各工場から部品を集め、それを造船所に移送するための手段として、果最島人車軌道の敷設が決定する。

 火力発電所の建設も決定する。

鉄道敷設

 瑞霞諸島における最初期の入植地は白瑞であった。ここから果最島までを結ぶため鉄道の敷設が始まった。

 1910年(明治43年)、白瑞~折野間が開業した。

 ※社名と日付は未定。そのうち決めます。

果最島造船所の開設・果最島人車軌道の開業

 1911年(明治44年)4月1日、果最島造船所が開所した。造船所へ部品納入のために、果最島西部には部品工場が設けられた。

 造船所開所に際して、部品工場から造船所へ輸送する交通機関として鉄道が選ばれた。鉄道は集(読み:つどい、現:果最島)~造船所間に敷設され、造船所開所と同日に開業した。これが果最島人車軌道である。

急増する人口、旧果最島橋梁の架設、電車の運行開始

 造船所や部品工場、火力発電所が相次いで開所したことに伴い、果最島の人口が急増した。果最山は急峻であり住宅等を建設するには厳しい土地ため、まだ手付かずであった瑞島を活用することとなった。

 1913年(大正2年)、瑞島東部に果最島の労働者に向けた住宅地を建設するために果最島と瑞島の間に果最島橋梁が架設され、2島が結ばれた。果最島橋梁の使用開始と同時に政場~果最島間が開業し、同時に会社名を「瑞果電気軌道」に改称。果最島に近い地域を住宅地とし、その離れに役所等が設置された。

 翌 1914年(大正3年)には盛冬まで延伸された。

 

 1913年 の政場~果最島間開業と同時に電気の力を用いて動く車両、いわゆる電車の運行が始まった。

 人車と比較し、大量の旅客を一度に輸送することができる電車の圧倒的な力の前に、諸島民は電気の重要性を認識。以後、「電気の力は島の力」をスローガンに、発電所の建設が進むこととなる。

盛冬延伸、市場の開場

 瑞果電気軌道は 1914年 に盛冬まで線路を延ばした。盛冬駅北部に市場を設けて瑞島内の農水産物を集め、卸すこととした。

 瑞果電気軌道は後の霞島接続をにらみ、瑞島の南部に線路を伸ばしたため、当時の北部は開発が進んでおらず、結果的に農地となった。

 結果、瑞島内では南北の移動又は各地と盛冬間の移動は活発であるが東西の移動は低調となり、この傾向は現代まで続くようになった。

広がる鉄道網

 1914年に盛冬まで開業して以降、延伸が進められた。

 

 

1910年には白瑞~折野間開業、

 

1913年 果最島〜政場

1913年 折野〜足広

1914年 政場〜盛冬

1915年 盛冬〜雪皇

1916年 足広〜雪皇 全線開通

1920年 米国禁酒法

1921年頃 酒造乱立

1922年 白瑞〜見霄ヶ崎

 

酒造地は足広から見霄ヶ崎に変更

電燈会社と霞島

 1913年に電車の運行が開始されて以来、電気こそ力なりだのそういったスローガンがかかっている瑞霞諸島では電燈会社が乱立した。

 発展が遅れていた霞島南西部でさえもぼこぼこ建っていた。

 持て余した電力を有効活用しつつ、瑞島まで線路を通すことを目論み、霞島電気鉄道が開業。

 瑞霞内海は潮の流れが比較的おとなしく、船舶の係留に適していたため、1924年、瑞霞海港が開港()。これにより海港と日朱が結ばれることとなった。

 このときから海玄町の地名が使われるようになる。

警察の腐敗、電鉄の何とか

 日本国から離れている瑞霞諸島は政府の目が届きにくく、各々が何かと好き勝手していた。特に警察組織は賄賂として酒を渡せば軽微な事ならば見逃してもらえるほどになっていた。

 これに対し、勤務中は飲酒できない・しない瑞霞電鉄は業務に対して真摯に取り組むため、諸島民から評価されていくこととなり、これが現在、瑞霞電鉄が規則等を厳格に運用するようになった。

 

※タイトル、文章等はそのうち整えます。

海堡の建設

 瑞霞諸島の東に4箇所の海堡が建設された。北から第一瑞霞海堡、第二瑞霞海堡、第三瑞霞海堡、第四瑞霞海堡と命名された。

大東亜戦争の開戦

 1941年(昭和16年)12月8日、日本国は宣戦布告を行い、戦争状態に突入した。

 太平洋上に存在する日朱警備府は重要な拠点として活用された。

戦時下の瑞霞諸島

第二次世界大戦における被害

 瑞霞諸島は幸いにも戦場とならなかった。

 1920年代の米国禁酒法により蔵元が多いことと果最島造船所の技術が秀でていることが米国人の間知られていた。このため、破壊活動を行った場合、施政権下においた後にこれらの施設が利用できなくなるために、軍施設など一部の施設に留めていたのである。

終戦後の瑞霞諸島

 1945年9月2日、日本が降伏文章に署名したことで大東亜戦争が終結した。翌9月3日、米国駆逐艦が霞島に入港、降伏文章の調印が行われ、瑞霞諸島全域が米国海軍の占領下に入った。

 1946年1月29日、SCAPIN-677 により、瑞霞所長全域における日本の施政権が停止され、瑞霞民政府が設置された。

瑞霞諸島の返還

 1967年11月15日、日米の会談の結果、米国との小笠原・瑞霞返還協定が締結された。これに伴い、12月8日に瑞霞復帰対策本部が設置される。

 1968年1月18日には海上自衛隊の護衛艦と海上保安庁の巡視船が瑞島と霞島に派遣され、十数日に渡って現地調査が行われた。

 4月5日、日米間で小笠原・瑞霞復帰協定の本協定が締結・調印され、復帰が決定された。

 6月12日、公布。6月26日に発効し、瑞霞諸島は日本に復帰した。なお、日本復帰後も日朱基地を在日米軍に提供していた。

原子力発電所の開所

 瑞霞諸島民は高効率に発電できる施設はなんでも好む。

日本からの独立

 1973年、瑞霞諸島は日本へ復帰した。と同時に独立を宣言。

 <!-- 下手すると第三次世界大戦に突入しかねないので詳細に検討すること -->

先進的研究学園都市の決定

 1979年、先進的研究学園都市計画が始動した。1984年 に対象地域を瑞霞諸島とすることを決定。瑞霞内海の一部を埋め立てて人工島を造成し、その上に研究施設や学校等を建設することとされた。

 この決定を受けて漁師を主とした一部の諸島民たちが強く反発、1985年 には騒擾事件となった。

 なお、多くの諸島民は周囲から隔離された諸島は何かと不便であることから徐々に人口の減少、諸島の衰退を感じており、諸島の発展となるこの計画はおおむね好意的に受け止められている。

先進的研究学園都市の造成

 1996年、ついに瑞霞内海に人工島の造成が開始された。

 2008年 には造成が完了し、各種研究施設や学園都市の建設が始まった。

 お国は瑞霞電気鉄道に補助金を与え、霞島と人工島を結ぶ鉄道の建設を行わせた。

研究学園都市の使用開始

 2011年4月1日、望島では国立研究所他、各種研究施設の使用が開始された。夢島では瑞霞大学と瑞霞大学付属高等学校が開校、第1期入学生が入学した。また、この2島と霞島を結ぶ瑞霞電気鉄道学園支線が開業、研究者・学生らの輸送に貢献している。

コバルト・リッチ・クラストの調査

 瑞霞諸島付近でコバルト・リッチ・クラストの鉱床が発見された。

 これにより、瑞霞諸島における経済が活発化していく。と思われる。

これからの瑞霞諸島

 私が知りたい。

参考文献


   鳥海靖(2013)『もういちど読む 山川日本近代史』山川出版社

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